Dr. K

気の赴くままに書きます

【自己紹介②】夢と挫折

生涯をかけてもやりたい職業につける人は世界でどのくらいいるのだろうか。今年で29歳になった私は現在無職である。こうなることは2年前の自分は予想できなかっただろう。全てを失った波乱万丈なここ一年の備忘録を記したい。

 

アカデミアの就活

アカデミアの就活事情は独特である。企業の就活と異なり、完全に自分という個人を売り込みにいくスタイル。これまでの業績を引っ提げてどうですか?やりまっせ。と押し売りに近い気がする。時期は特に決まりがなく着任したい一年位前から様々な公募を漁る。大抵はjrecinを眺める毎日。

博士後期課程3年になった2020年4月、自分は全くと言っていいほど成果がなく、卒業も危ぶまれていた。なので、まったく就職に関しては考えていなかった。それどこれではなかった。時間がないけど高いジャーナルに投稿したいというジレンマの中、研究を推進していた。

そんなこんなで、成果は出ないまま夏が過ぎて秋が来た。予備審査が近づいてくる、投稿論文を書かなければいけない、D論を書かなくてはいけない、てんやわんやしていた。やることがあるだけいいのだが。研究するテーマがなく、テーマを探しているM2の頃が一番きつかったことをバネに必死に生きる。そんな中、自分と研究テーマが近い研究室から公募が出ていた。ダメ元で応募すると、仮面接に呼ばれた。結果としてはダメだった。成果もなく、プレゼンも理路整然と整理できているわけでもないので、当たり前の結果だった。その後、そのプレゼンをもとに予備審査のスライドを作り、推敲して完成まで持って行った。1週間は死に物狂いでこれまでの学会のスライドから切り貼りしてストーリーを作った。

11月に予備審査が終わり、投稿論文に取り掛かった。本名と卒業用のための2報を仕上げた。一度、面接がダメだった自分は全く就活のことは考えてなかった。そんな時に指導教官から「とりあえずいろんなところに応募した方がいい」という助言から様々なところに応募しようと思った。これが悪夢の始まりだった。

応募したとある研究室の教授から話に来てほしいと指導教官のもとへ連絡が来た。指導教官も

「行って嫌なら断ればいい」と軽いノリだった。そして、土曜日に研究室を訪問した。しかし、行ってみて仰天したのは「もう君に決める」ということだった。その後は、永遠とその教授のこれからの計画を話していた。初対面だったが、6時間以上一方的に話をされた。

その後、指導教官と話し合い「公募を出してしまったから行くしかない」とプレッシャーをかけられ、断れない状況に追い込まれた。一度も自分は首を縦に振らずに内内定のようなかたちになった。

年明け

 教授たちの前で形式的な面談が行われた。もちろん、結果は内定。その後、公聴会があり無事に博士号をもらうことができ、いろんな先生方に挨拶に行った。頑張ってくださいと激励の言葉を多くもらった。

指導教官も「ダメな時は助けてやる」言ってくれたので信じた。

新年度_2021年春

着任早々コロナの影響で学校に入れない状態になった。しかし、研究をしたかったので研究室には行った。右も左も分からない中でなんとか研究を始めた。

入ってわかったことだが、土曜日もある研究室だった。12月に研究室訪問した時は「週末は実家に帰ったりうまく時間を使ってください」と言っていたので、うまく騙された。そして、驚いたことに、学生の頃いた研究室とは異なり、まったく所属している学生同士での情報の共有がなかった。他の人が何をしているか誰も何もわからなかった。博士後期課程の学生さえも後輩の研究がわかっていなかった。自分は、後輩の研究は全て説明できて考えるくらい把握していたので、驚いた。これは、完全にトップダウン型の研究で、全員がボスの駒としてせっせと作業をこなしているということに気づいた。

そしてなによりも辛かったのは、月に1、2回ボスに呼び出されて6~8時間ひどい時はそれ以上監禁されて学生や他の先生方の悪口を聞かされることだった。同じ話もされるので段々と何かが失われていくのがわかった。

そんななかでもなんとか夏までは研究を行っていた。ちらほら学生も来るようになった。普通であれば研究室の方針を教授が示すべきだが、全く示すことはなく学生の悪口ばかり言っていた。自主性を重んじるといいつつ、悪口を言うくらいなら、強制した方がいいだろうと思っていた。スタッフである自分もどうにかしなければいけないと思いつつ、ボスの方針に従わなければと、少しずつ何かがずれていった。研究の報告もボスに行っていたが、学生とスタッフの違いがわからず、コマになりつつあると感じていた。

年度末の学会や科研費の申請をしなければいけない時期になった。そして、学生実験というタスクも増えた。また、学生とボスと研究の進捗報告も始まっていた。

ボスの学生に対する言葉遣いが徐々に攻撃的になるにつれて精神的に辛くなった。自分自身の研究を報告するのも怖くなった。何もわからないまま、週6で8時から1時まで毎日働いた。学生の頃も7:30から22:30まで研究していたので、苦ではないと思っていた。しかし、日曜は起き上がれなくなった。何をするのも億劫になり、風呂に入るのことも、部屋のゴミを掃除することもできなくなった。連休にメンタルクリニックに通い始め、薬も飲み始めた。体重は8 kg減った。

新年_冬

そしてついにボスから人格否定の言葉を浴びせられた。 これまで、他の先生や学生のことを言ってきたように。何かが折れてしまうのがわかった。もう、アカデミアはやめにしようと思った。その日から研究室に行くことができなくなった。やめることを決心した。

やめるための手続きをした。もう研究に関わるものはすべて捨てた。見るのも考えるのも辛かった。

唯一信じていた元指導教官も「今後の進路には一切口出ししない」ということ、「こういう状況になったのは全部親の育て方のせい」と両親の責任にして見当違いな議論をし、保身に走り、助けてくれなかった。無関係な両親を侮辱されたことは遺憾に思う。完全に見捨てられ、立ち直れなくなった。

 

再びの新年度_すべてを失った今

何もしないまま約半年が過ぎようとしている。一生を賭けて挑戦したかった研究者になるという夢は儚く散っていった。そして、得られたものは無職だけだった。生きがいのすべてを失った。今回の件で、アカデミアの人たちのことは何も信じられなくなった。一生、許さないと思う。無職になるなら、就活に失敗して、研究が好きなままのほうがまだマシだった。こんなことになるために、博士号を取得したわけではないし、学生時代のすべてを研究に捧げたわけではない。今回の就職に関連した人たちのことを絶対に許さない。これから、活躍していく後進をみて羨ましく思い、嫉妬する人生なのだと思うと気が重い。

ようやく、なにか行動をしようと思えるまで、回復してきた。もっとあの環境にいたら回復は遅かったと思うとゾッとする。

これから、熱中できることを1から探していこうと思う。自分の信じた道をこれからは進もうと思う。